2014年02月02日
NHK の番組で河津三郎と曽我兄弟ゆかりの地を紹介
こんばんは、案内人です。
先日紹介したNHK静岡放送局の番組が一昨日放送されました。河津三郎と曽我兄弟のゆかりの地を、短い時間内にギュッとまとめてくれました。
河津三郎祐泰は平安時代の末頃河津の荘を治めていましたが、領地争いの巻き添えで暗殺されました。未亡人となった河津三郎の妻は、二人の遺児を連れて曽我太郎祐信と再婚、遺児も曽我姓を名乗ることになりました。元服した兄弟は、兄・曽我十郎祐成、弟・曽我五郎時致と名乗り、17年後、源頼朝が富士の裾野で催した卷狩りで、父の仇工藤祐経を討ちました。日本三大仇討の一つと言われている曽我兄弟の仇討です。(ちなみに、三大仇討とは「曽我兄弟の仇討」「荒木又右エ門の伊賀上野の決闘」「赤穂浪士の討ち入り(赤穂事件)」だそうです。)
河津三郎の館は河津川に架かる館橋西側の山裾付近にあったといわれ、館の内(タテノウチ)の地名が残っています。曽我兄弟も幼少期をここで過ごしたはずです。現在は、河津八幡神社に河津三郎親子の霊が祭られています。
境内には河津町出身の彫刻家、後藤白童氏が制作した曽我兄弟の像が建立されています。また、番組では放送されませんでしたが、河津三郎が大きな石を持ち上げて体を鍛えている姿を刻んだ像もあります。
銘板の題字は大横綱の双葉山が揮ごうしたものです。
先日紹介したNHK静岡放送局の番組が一昨日放送されました。河津三郎と曽我兄弟のゆかりの地を、短い時間内にギュッとまとめてくれました。
河津三郎祐泰は平安時代の末頃河津の荘を治めていましたが、領地争いの巻き添えで暗殺されました。未亡人となった河津三郎の妻は、二人の遺児を連れて曽我太郎祐信と再婚、遺児も曽我姓を名乗ることになりました。元服した兄弟は、兄・曽我十郎祐成、弟・曽我五郎時致と名乗り、17年後、源頼朝が富士の裾野で催した卷狩りで、父の仇工藤祐経を討ちました。日本三大仇討の一つと言われている曽我兄弟の仇討です。(ちなみに、三大仇討とは「曽我兄弟の仇討」「荒木又右エ門の伊賀上野の決闘」「赤穂浪士の討ち入り(赤穂事件)」だそうです。)
河津三郎の館は河津川に架かる館橋西側の山裾付近にあったといわれ、館の内(タテノウチ)の地名が残っています。曽我兄弟も幼少期をここで過ごしたはずです。現在は、河津八幡神社に河津三郎親子の霊が祭られています。
境内には河津町出身の彫刻家、後藤白童氏が制作した曽我兄弟の像が建立されています。また、番組では放送されませんでしたが、河津三郎が大きな石を持ち上げて体を鍛えている姿を刻んだ像もあります。
銘板の題字は大横綱の双葉山が揮ごうしたものです。
最寄りの路線バス停留所の名前はこのとおり。
近くには河津三郎にちなんだ「河津三郎の足湯処」があります。河津川沿いに建つ共同浴場の屋上にある足湯からは、対岸の河津桜並木がよく眺められます。
番組のきっかけは、昭和55年に完成した曽我兄弟の像の除幕式に招待された浜松市在住の曽我さんからの手紙だそうです。
いつも気にかけてくださっている曽我さんに感謝です。
それでは、また。〈秀)
近くには河津三郎にちなんだ「河津三郎の足湯処」があります。河津川沿いに建つ共同浴場の屋上にある足湯からは、対岸の河津桜並木がよく眺められます。
番組のきっかけは、昭和55年に完成した曽我兄弟の像の除幕式に招待された浜松市在住の曽我さんからの手紙だそうです。
いつも気にかけてくださっている曽我さんに感謝です。
それでは、また。〈秀)
Posted by 案内人 at 22:34
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